ゲーム趣味の本質ってなんだろう

まーたこんなこと考えてる。
いや、先日の任天堂のハードサポート終了のお知らせを聞いて、やはり永遠に遊べる「ソフト」というものはないのだな、と思い知らされたものだから。
一つのお気に入りの「ソフト」をいつまでも遊ぶということは叶わない。ROMもディスクも本体も寿命は必ず訪れる。ことにディスクメディアの本体の寿命は短い。恐らく15年以上もつのは稀だろう。酷使していたら5年ともつまい。仮にROM機であったとしても電解コンデンサなどを使用していれば経験上恐らく20年程度で寿命が訪れる*1。まあ初期のゲーム機は構造が単純なのでそれほど深刻ではないようだけれど。
あるいはお気に入りの「ゲーム」は、常にその移植やエミュを手に入れていくべきなのか。
また「飽き」という問題もある。飽きたら遊ばない。では飽きたソフトはどうしたらいいのか。
買っては遊び、買っては遊びして、常に新作を消費していくのがゲーム趣味というものなのか。
買って遊んで、飽きた「ソフト」に資産としての価値はないのか(別に資産的価値を求めてるわけじゃないけど)。

元々このテーマは鬱が酷かった時に気づいたものなんだよね。ふと思ったんだよ、「好きなソフトを愛でる」のが本質なら、それらを揃えたところでもうハードもソフトも買わなくていいハズだし、「次々に新作を消費する」のが本質なら、古くなったらポンポン売り払って新しいのを買うべきなんだよね、と。
でも実際の所はどっちでもない。愛でてるし新しいのもガンガン買う。そしてそんな状況を見て私の周囲の人間は皆異口同音に理解できない、という。普通ならばある程度買ったところで満足するか、飽きた物は次々に売って新しい物を買っていくべきだろうという。
ある意味コレクター的な側面もあるのかも知れない。いやしかし色々な人の発言を見ていると必ずしもゲーマー=ゲームコレクターではないようだ。そこにまた迷いができる。


私の立ち位置は間違っているのか、それとも単に周囲に理解がないだけなのか。

*1:Macintosh ClassicIIで経験した